日本の再生文化 vs 西洋の永続文化|物への信頼とつながり



石の文化と木の文化についてのお話です
ある旅番組を観ていた。
西洋を旅するその番組で、数百年の歳月を重ねた石組の遺跡を、そのまま住居として今も活用し続けている様子を紹介していた。
TVの画面に映る石の建造物の歳月を重ねた堂々たる姿は、「永遠に変わらない!」と強い説得力で迫ってきた。
永遠に変わらない、その感覚に頭がクラクラした、まさにカルチャーショック。
日本は木の文化、地震や台風など人智の及ばぬ自然の力に争わず、再生の利を活かした文化、だから木の建造物は壊れる。石の文化西洋の、数百年または数千年変わらず活き続ける建造物と共に暮らす感覚は想像出来ない。
私たち日本国土に住む者にとって、永遠に変わらない物など想像出来ない、あらゆるものは時と共に変化し、朽ち、破壊される。
とすると、永遠を基本とする文化と、変化を基本とする文化ではどんな違いが現れるのだろう?
物に対する信頼度が違うのではないか?そう閃いた。
永遠に変わらぬ物に絶対的な信頼を置く文化と、変化する物をあまり信頼しない文化。







クロアチアのスプリトは、 4 世紀に古代ローマによって建てられたディオクレティアヌス宮殿で知られている町です。
広大な遺跡には様々な時代に建てられた200 以上の建物が残っています。



古代ローマの城壁の街、素敵!



それにしても、4世紀の建造物がまだ残っているとは、悠久の時を感じますね
現役の街として活用されていることも感動します



1700年も壊れないなんてすごい!
西洋の石の建築って本当に長持ちしますね、日本の木の建物では考えられない、日本も石で作ればよかったのに



日本は地震国ですから、堅牢に作るより壊れた後のことを考えたんだと思いますよ



日本は地震多発国であり、自然災害と共に生きる文化が育まれてきた。木造建築や再生可能な資源の活用、壊れても再建する精神が特徴である。地震の歴史は日本文化や価値観に深く影響している。
(ChatGPTで作成)



やっぱり地震があるから、壊れることが前提なんですね
石の堅牢な建造物は、永遠な感じがするけど、日本に住んでると永遠ってピンとこない気がします



永遠を基本とする文化と、変化を基本とする文化、
文化によって物に対する信頼度が違うかもしれないと思うんです



物に対する信頼度ですか?



壊れず変わらすに存在し続けるものを人は信頼するけど、すぐに壊れて無くなってしまうものを当てには出来ませんよね、そういう信頼度です
金が昔から価値が高いのはそのためです



・・・少し違うかも知れませんが、海外のドラマや映画を観ていると、サンタは「見たことがあるから存在する」「見たことがないから存在しない」と子供達が言い合うシーンが有るんです、
「見たり触れられるものは存在しているけど、そうでなければ存在していない」っていう考え方に、チョット違和感あるんですよね



日本は見たり触れたり出来ないモノに重きを置くことが度々ありますね、妖怪やお化けなどもそうです
目に見えない曖昧なモノの類は世界中にありますが、日本では生活の中に同居しています、親しみがあるんです
近年ではアマビエ、ゆるキャラなどですね



見える物も見えないなモノも、ものである
「スモモも桃も桃のうち🍑」みたいになっちゃいました💦



物に信頼感が少ない故に、「物」の意味が広がったのかも知れません
また、物自体よりも、物や環境や人などのつながりで捉えるようになったと思うのです



つながりですか?
自然災害によって、破壊され変化してゆく物を目の当たりにした日本国土に住む人々は、変化する物に確固たる信頼感がないために、物を重視するよりも、それらのつながりや関係性を重視するようになったのではないだろうか?
【石庭の秘密】想像力で広がる日本庭園の奥深い世界



レンさんは石庭ってしていますか?



石庭(せきてい)とは、日本庭園の一種です。
石庭では、大小さまざまな石を巧みに配置することで、山や島、滝などの自然の景観を象徴的に描き出します。また、白砂を用いた庭では、砂に引かれた波紋のような模様が水の流れや風の動きを表現しています。
(ChatGPTで作成)





情報ありがとうボンド
ウーン、砂のうねってる感じとか、ポツンとある岩に引き込まれる感じがします。でも、なんか殺風景



この庭は自然を体験するのではなく、想像するんです
目で見るのではなく想像で観る、水の無いところに水を感じ、小さな限られた空間に大海を観る



ボンドの辞書に想像という文字はない!



AIは予測は出来ても予想はしないから、想像もないのか



ボンドは庭だけではなく、その周りや自然、海や宇宙の情報とつなぎ合わせてみたらどうかな



気が付いたんですけど、情報の少ない庭だからこそ想像の余地がある気がして来ました
目に見えるものを見ながら、そこに想像を働かせるなんて、遊びみたいですね、いくらでも見ていられます



想像の力は、無限に広がる世界を捉え、庭や小さな箱庭にすら宇宙を想起させる
禅の心ですね、壮大な遊びですよ
石庭、石や砂で施された庭は、大海を、宇宙をも表すという。
自然に触れ体験するのではなく、想像の入口として存在する、よって禅とも関係が深い。
水はなくとも、波紋をかたどる砂に波の力を感じ、
海はなくとも、苔むす岩の先に波濤の彼方を見る。
地上に居ながら、宇宙の広がりやパワーをも感じられる。
想像の池は、モノに依存しないゆえに自由であり永遠であり無限である。
実在する物では無く、想像で空間を満たす、それが石庭である。
(そこに田中さんが唐突に現れた、と言っても幽霊だから当然である)



石庭ですか、こんな殺風景な庭、何が良いんですかね
私は元々日本庭園よりも西洋のはっきりとした主張のある庭が好きなんですよ、砂と石しか無いなんて退屈じゃないですか



想像力ですよ、禅ですよ禅、遊びなんです



想像?私はそんなもの信じません、目の前に実在するる物だけが真実なんです
想像なんて子供の遊びですよ、大人のする事じゃない



ボンド見えた、石の庭と波のうねりはパターンが共通しています、意匠化された波のデザインにも共通しています
砂の上のポツポツ並ぶ石は、配置が似ている場所が松島にあります、砂が海で石が島です



その共通していたり似ていたりするものを、同じものとして想像するのが人間なんだよ



想像?分かりません



偉いぞ、おむすび君!
想像なんて必要ないぞ、情報を辿って現実だけを見ていれば良いんだ



人間には想像が必要なのよ!
目の前の現実だけ見てたら息苦しくて仕方がないじゃない



俺にはないね、目の前の現実だけが重要なのさ



目の前の存在よりも、目に見えないつながりを意識する日本文化では、想像力が育まれやすいとも言えます
水はなくとも、波紋をかたどる砂に波の力を感じる、そんな想像の遊びが心を馴染ませるのかも知れませんね



そうよ、想像の海・・・壮大な宇宙・・・なんだか癒される!



勝手に言ってろ、俺は行くぜ
( 幽霊の田中さんは消えた)



存在しないから、無いとは言えないのですが



田中さんの存在って・・・なんだか皮肉



田中、皮肉?
つながりに着目することで、実際に目に見える物事以上を捉えようとするのは、日本文化の一面である。
見たり触れられる形ある物もいつかは壊れ、目に見えない形のないモノになる、変化を考慮に入れると、存在の証明は目に見えることではない。
だから、変化が身近な日本では目に見えないモノにも価値を置く。
モノは儚く消え去るが、つながりは形にも、空間にも、時間にすら依存しない、永遠であり無限だ。
日本文化は、つながりによって、目に見えないものを捉え、存在に囚われない想像力を育て、そして永遠に変わらぬモノを手に入れた。



「つながりで捉える」それが今の私の最大の興味です。
古から続く日本文化の中にも、ボンドのようなテクノロジーの世界にも、この世のあらゆる場面に登場します、そのつながりを紐解くのが私の目標なのです



つながりで捉えるって、なんだか分かるような…分からないような
でも何となく楽しそうな気がします



僕も楽しみ



ボンドは、この研究の助手にするために開発しました、人の目で捉えられないあらゆるつながりを察知するためです



ボンド偉い?



でも、ボンドに向かない人の感性というものがあるんです…
感性豊かな蓮さんが手伝ってくださると助かるんですが



興味というより、疑問が次々湧いて来ました、その疑問を解決したい、私、俄然やる気出て来ました。
自分探しも煮詰まっていることだし、自分のルーツである日本文化をもっと知ってみるの一つの方法ですね。



レン仲間なる?ボンドと先生の仲間なる?なったら、ボンド嬉しい!



私も嬉しいよボンド。こんな頼もしい仲間がいるんだから
こうして、先生、ボンド、蓮の「つながり探し」が始まった。


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